上方落語で、「ボケ」の喜六と「ツッコミ」の清八が伊勢参りに行く噺があります。三代目桂米朝に入門すると最初に習う噺『東の旅』の中での「伊勢参宮神賑」です。江戸時代になって、一般市民の生活がよくなり、お伊勢参りが一つの娯楽に。それを題材にした上方落語の演題です。今日は、その落語の出足のところに併せて神社巡りをしました。
伊勢参宮神賑

 伊勢参宮神賑の出発は、西日本JRの大阪環状線玉造駅がスタートになっている。
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 その前に創建が垂仁天皇18年で、玉作部の住居地である玉造稲荷神社からにした。
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 大阪から奈良までの道のりは、暗越奈良街道が一番近道で、高麗橋が街道の出発点。そして、この玉造稲荷神社を通過します。この神社は、伏見稲荷大社と同じく、お稲荷さん(ウカノミタマ)を祀っているが、稲荷神社になったのは、室町時代のことなのだろう。穀物・食物の神さまを祀っていたのでしょう。
玉造稲荷神社の由来

 この辺りは、物部氏の最後の領地で、スサノヲ系の神様を祀っていたと思う。四天王寺を建立した聖徳太子や大坂城に近かったこともあり、豊臣秀頼とも関係があった。平安時代の最大の美人、小野小町もこの神社に立ち寄っている。そして、この神社について歌を詠んでいます。
小野小町の歌碑

 平安時代でも、この神社のそばまで、河内湾が広がっていたのですね。次の目的地は深江稲荷神社。そこまで行くまでに、暗越奈良街道をぶらり。
玉津橋

 玉津橋を渡って、こんなところに石碑が。
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 今里筋にでて、また、暗越奈良街道に。そこに堺屋太一さんの説明文が。
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 いよいよ今日の目的地。内環状の新深江の交差点を越えて、深江稲荷神社に到着した。
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 この神社も玉造稲荷神社と同じでお稲荷さんを祀っているが、この神社も垂仁天皇の時代に創建され、元々、シタテルヒメを祀っていました。シタテルヒメはオオクニヌシの娘となっているが、新羅王の子アメノヒボコが日本まで追いかけてきた妻、アカルヒメと同一ではないかと言われている神。このシタテルヒメを祖とする笠縫氏の本拠地でした。崇神天皇が宮中にアマテラスとヤマトノオオクニノミタマの二つの神を祀っていた。すると、疫病が流行して人口の半ばが失われた。そこで、アマテラスを崇神天皇の皇女、トヨスキイリヒメに預け、笠縫邑に移し祀らせた。笠縫邑は、大嘗祭や豊明節会などが出来る場所のことで。トヨスキイリヒメは、笠縫邑として何カ所か移り、最終的に伊勢神宮に落ち着いた。笠縫氏は、ヤマトの笠縫邑(大神神社、多神社など)から摂津国東生郡笠縫島に移り住んだ。
2100年前の河内湾

 この地は良質の湿地に生える背の高い草、「菅」が採れた。そして、伊勢神宮の神事(大嘗祭など)に収めた。

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 今でも、菅(葦)を植えています。今年、東京で大嘗祭が行われる時に、深江稲荷神社の菅を献上するために。
深江稲荷神社と笠縫氏

 
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 サルタヒコやアメノウズメを祀っているので、かなり古い神社で、アマテラスとも関係深い神社なのだろう。




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